2014-02-21 第186回国会 衆議院 総務委員会 第3号
これは陸支密といって、秘密電報で、シナにいる北支方面軍、中支派遣軍参謀長宛て通牒案という、シナ事変地における慰安所設置のために内地においてといって、いろいろな通達文を出されている。それは、できる限り不正なことがなされないように軍はそれを見張ってくれよというふうなことを言ったんですね。
これは陸支密といって、秘密電報で、シナにいる北支方面軍、中支派遣軍参謀長宛て通牒案という、シナ事変地における慰安所設置のために内地においてといって、いろいろな通達文を出されている。それは、できる限り不正なことがなされないように軍はそれを見張ってくれよというふうなことを言ったんですね。
それからこのような方々、つまり戦後、山西軍に参加したところの者はどのくらいあるだろうということでございますが、その当時北支方面におられました軍人軍属で二千六百名、それから在留邦人、この場合、ただいまのこの方も在留邦人に入るわけでございますが、三百五十名、計二千九百五十名の方が山西軍に参加をしておる、こういうふうに私どもは数字をつかんでおります。
今後中国に対する輸出の期待についてどのように考えるかということでございますが、中国への戦前における輸出量につきまして検討いたしておったのでございますが、これは、主として満州なりあるいは旧租借地でありまする旅順、大連等の地帯であるとか、あるいは若干北支方面にも流れておったようでございますが、そういう地帯でございますので、やはり相当部分が日本人の需要にささえられておったのではないかと思われるわけでございます
しいて言うなら戦前はただ北支方面に繊維機械あるいは満関支地帯と称された時代に関東州の方にそうした繊維機械がごくわずか出された。いわゆる機械というものは終戦後クローズ・アップされたものです。私ども国民の一員として、また貿易業者として、機械がここまで伸びて輸出面に大きなポストを占めるとは、実は一業者として関連のある者といたしましても、予期以上のことであったわけです。
○高津委員 私は、今から三十数年前に、そこに来ておられる大久保大臣が、満州及び北支方面に出張されて、われわれが国外へ脱出するのを一生懸命に守っておられたのでありますが、やはり警察関係の担当の大臣になっておられるので、この際特に一言重要な問題を申し上げたいと思うのです。
北支方面の引揚げは一番最後になるだろう。山西には一万人の日本軍人と一般人がいるが、引揚げ船の関係で、五年先か何年先になるか不明である。ゆえに帰国を断念しなければならぬと宣伝工作が行われた。 帰国の機会があつても掃えれなかつた理由と事実、1、塁兵団一四七五部隊長布川直平大尉の言、「お前が帰ると頑張るなら俺にも考えがある、お前のような奴は日本軍人の面よごしだ」と脅迫し、帰国名簿より削られた。
従いまして二十三億の九五%、ほとんど全部に近い金額が中南支方面、このようになつておりますので、ごういつたところは、北支方面につきましては百分の一、中南支につきましては四百三十二分の一に相なるわけでございます。
ただ中南支、北支方面におきまして、多少の換算をいたしますが、これも五千円までのものは今の二千四百分の一というようなひどい率になるのではないのでありまして、当時為替管理法の建前から、支那本土から日本に為替を組みます場合には、十倍の調整費をとつておつたのでございます。百円送ります場合には、一千百円の金がいつたわけであります。これは連銀券にいたしましても儲備券におきましても同様でございます。
但し満州方面、北支方面に大量のみかんが輸出されていたものが、今日は国際情勢がああいうふうでありますから、そこにその量が行かない。それを国内で今食べていることになるわけで、豊作年にはかなり相場が下落することに対して生産者は非常な不安を感じている。それからりんごにおきましては、これは戦前の最高より大体七、八割増産になつております。
これは日本の大きな立場からどういう見解が立つかわかりませんけれども、わが国の製鉄業を中心にして考えますと、ほかに使い道のないと一応断定される粘結度の高い北支方面の粘結炭、また北支方面の鉄鉱石、あるいは揚子江沿岸の鉄鉱石、これらをどうしても考慮に入れなければならない。
それからまた北支方面におきましても、北支の連合準備銀行券がインフレで非常に価値が下つたものですから、朝鮮銀行券が退蔵されました。これはちよつと余談になりますけれども、私が天津に出張で参つたことがあるのでありますが、その時分に、何か荒物屋みたいなところへ寄つて、マツチかタバコか何か買つたことがあるのです。
途中昭和十四年から約三年間、北支方面で大体外国材の輸入を業としておりました。戦争が始まりましてから、昭和十七年に海軍より海洋いかだの業と伐木、製材、木工の起業を下命されて、南方ボルネオ、ジヤワ、セレベスの方にいて、終戦直前に帰つて参りました。
○証人(幡谷仙次郎君) ついでにちよつと……、さつきから中支、北支方面の御質問はございましたけれども、関東州のことについては何も御質問がございませんから、私の申上げたのでよく御満足になつたのじやないかと、こう私は思つておりますが、どうか関東州のことについて疑問の点がございましたら、私は材料はたくさん持つておりますから、説明いたします。
このうち北支方面に中共容疑として渡されたとすれば、今の藤田閣下以下七名の人人、尚その他或いは行つたかどうか私第一回の船で帰りましたので存じません。ただ新聞で第二回の信濃丸で帰られた将官中の竹下中将が二十名というような数を言つておりますので、或いは我々が出発するときにラーゲルに残りました十五名の日本のいわゆる勤務兵がナホトカにおつて、最終船の信濃丸に乘込む方がそこから聞き得た情報かも知れません。
従つてこういう点について、普通の貿易というか、それよりも多少の支障があるという点は、われわれ認めるのでありますけれども、しかしながら英国が中共を承認したという観点から、今後香港貿易も、従来よりもより多く活溌になつて参ると存じますし、また北支方面におけるところの青島なりあるいは天津あたりの、バイヤーも、あるいは英国のバイヤーあたりもこれに加わることと存じますので、今後対中国貿易も、相当従来よりも進展して
また日本内地におきますバイヤーを通じまして、ドル貨支拂いで中共地区へ、天津あるいは北支方面へも実際には物が流れているとは想像いたすのであります。できるだけこういう方面についても、力を盡して行きたいと考えている次第であります。
があつたと思うのでありますが、中共の貿易の問題にも、ついてに言及いたしたいと存ずるのでありますが、中共の貿易につきましては、もとより日本は目下占領下にあり、管理下にあるのでありますから、中共との間の正式貿易ということにつきましては、どこまでも関係筋のポリシーに沿うて行かざるを得ないのでありますけれども、実際問題としましては、従来香港あるいは澳門のバイヤーを通じておつたところの取引だけでなく、直接に北支方面
○河田委員 私は舞鶴にしばらく住んでおりましたが、あすこには元海軍工廠の寄宿舍があり、戰後満州あるいは北支方面からの引揚者の寮に一時なつておりまして、それが最近ではソ連の引揚者はもとの平の海兵團の方で引受けるので、前に申しました上安その他にたくさん前の海軍工廠の寄宿舍がありますが、多分あれも國有財産になつておるのだと思います。ところがそれがもう炊事場はとりはずされて、ただ宿舍だけ残つておる。
ことに日華関係においてわれわれが最も重視しなくてはいけない満州方面、あるいは北支方面が完全に中共軍の支配するところとなつておる今日、われわれは單にいつまでも蒋介石政権のみを相手として日華間の問題を処理して行くわけには行かないと思う。